Q & A

 

Q,お檀家さん以外でも法要はできますか?

A,はい、できます。いつでもお気軽にご連絡下さい。


Q,法事の後に、お寺で食事をとることはできますか?

A,はい、できます。お寺にはお食事のカタログがありますのでご相談下さい。


Q,大乗寺ではなく、他の霊園でのお経なども頼めますか?

A,はい、お受けいたします。事前にご相談下さい。


Q,水子供養はできますか?

A,はい、できます。いつでもお電話下さい。


Q,駐車場はありますか?

A,はい、ございます。

お寺や法要について

Q,仏壇って何ですか?

A,仏壇はお家の中にある小さなお寺です。

 家族の心の柱であり、ご先祖様へ感謝をお供えする場所でもあります。


Q,仏壇の置く場所や向きに決まりはありますか?

A, 仏壇を安置する場所には、色々な説があります。代表的な「南面北座説」は、

  仏壇の正面が南、背が北になるように安置することです。その他様々な

     言い伝えがありますが、日蓮宗には仏壇をどこに安置するかの絶対的な決まり

     はありません。大切に扱い、清潔さを心がけ、落ち着いて礼拝できるところに

     安置してください。


Q,ご先祖様の位牌が多くなり、仏壇には並ばなくなってきたのですが…。

A, 位牌が多くなりすぎたら、古いご先祖様から順次過去帳に記入してください。

    過去帳をご本尊の一段下の中央に置き、両脇に新しいご先祖様のお位牌を祀って

 ください。


Q,お盆には、どういう由来があるのでしょうか?

A,お盆は、お彼岸と並ぶ先祖供養の法会です。もともと、ブッダの弟子目蓮尊者

 が、餓鬼道に堕ちた母親の苦しみを救った由来を説いた「仏説盂蘭盆経」の経説

    に拠って始められました。 日本では、伝わってきた仏教思想と伝統的な宗教儀

    礼が結びつき、現在のお盆の習慣が出来たと考えられます。


Q,多摩市のお盆は7月ですか?8月ですか?

A,各ご家庭で異なりますが、この辺りは比較的8月のお盆の方が多いと感じます。

 8月1日がお盆の方もいらっしゃいます。

 大事なことは、家族全員でお迎えすることが大事でしょう。


Q, お彼岸(ひがん)ってどういう意味ですか?

A,常に変化し苦しみ多いこの世界を「此岸(しがん)」というのに対し、
 対極にある苦しみを離れた平安な世界を「彼岸(ひがん)」といいます。
 煩悩を離れて悟りの境地に至ろうとする仏教思想と、日本の伝統的な先祖供養の

 信仰が結びついて、祖先の霊を供養する行事となりました。


Q, 春分と秋分の季節にお彼岸があるのはなぜですか?

A,太陽が真東からのぼって真西に沈むところから、そこに浄土があると信じ法要を行う説、昼と夜の長さが等しいことから仏教の中道(偏りをもたないこと)の思想に合致するので法要を行う説、天地の諸神が交代する日として法要を行う説など、諸説あります。


Q, 施餓鬼とは?

A,施餓鬼は、読んで字の通り、餓鬼道にあって苦しむ一切の衆生に食べ物を施して供養する法会ですが、「添えせがき」とか「付けせがき」といって、自分たちの先祖の追善供養をするのに、普段の供養回向よりも功徳があるとされ、どちらかといえば、こちらの添えせがきの方が熱心に行われている趣きがあります。

 しかし、本来は供養を受けられない無縁の精霊に供養するのがお施餓鬼ですから、その趣旨をよく理解することが大事です。

 餓鬼という存在について、著名な禅の学匠鈴木大拙老師は、こう書いておられます。

「餓鬼は六道の一つである。餓鬼は死者の霊であるが、飢えていて永遠に食物を欲しているように見えるので『餓鬼』として知られている。餓鬼とはおそらく、飽くことを知らぬ人間の所有慾を表しているのであろう。もしも無限に異なった形式をとって現われているこの世の貪慾が、すべて施餓鬼の法会を修することによって、満たされるとするならば、浄土はやがて実際に此土に現出するであろう」(禅堂の修行と生活)

 つまり、あの世の餓鬼と見える存在は、今を生きている私たち生者と全く遮断されたものではなく、我々自身の欲心とすぐ隣合わせの存在だというのです。

「そうすれば死者と生存者とは実際に区別せらるべきではない。いわゆる生存者とは死者によって生きている、すなわち、いわゆる死者と見るものはもっとも活々とした形で生存者の中に動いている。祈りは、そこで、豊かに正覚に恵まれんことを祈るの義もあり、感謝は『死者の霊』と共々に、正覚を証することの機会を味楽するを感謝するの義である」(同前)

 ですから、この世での貪欲に気づいて自らを反省することが大切です。「施す手は欲を捨てる手」なのです。

 いずれにしても、仏教は心の持ち方が大事であると考えます。

「三界は唯心の所造、万法は唯識の所変なり」という言葉がありますが、何ごともみな、心が本となって現れるのだという意味です。

 たとえば花を見て、「きれいだなあ」と思うとき、その気持ちはその人の心をきれいにしますので、それは仏心に近いものです。

 しかし、「きれいだから、枝を折って持って帰ろう」と思うと、たちまち貪りが生じます。そのむさぼりが餓鬼や畜生の心を生むと考えるのです。一瞬一瞬の思いの中に、地獄から仏までが生じ、それは常に電気が点滅するように変わっていくのですから、気をつけなければなりません。

 樹木の葉が光りの方へ向いて成長するように、人もまた自分の心を、きれいな方へ、むさぼらない方へと、いつも向けておくことが大事です。

 お施餓鬼は、知らず知らずに貪りを生じている我が身を反省し、仏心に立ち帰ることを願って供養する勤めと言ってもいいのです。

仏事について

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